【対馬丸】ポンコツの貨物船と山羊散歩

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人気のない波の上ビーチ

緊急事態宣言18日目のなーふぁぬまち(那覇のまち)。

2021年6月9日(晴れ)、波の上・若狭エリアを歩いた記録。

対馬丸(つしままる)記念館」を訪ねることにした。

 

書籍「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード著(小学館)の中に、9歳で対馬丸に乗船。妹を亡くしながらもご本人は無事沖縄に戻ったという平良(たいら)啓子さんという方が登場されていたのがきっかけ。

 

対馬丸について(ざっくり)

1941年(昭和16年)日本軍の真珠湾奇襲攻撃によりアジア太平洋戦争が開始。同年7月7日 サイパン島が陥落する。

サイパンの次は沖縄が戦場になるとの予測により、子どもから年配者まで女性たちの疎開指示が出され、7月中旬から一日本と台灣への一般疎開学童疎開が次々と決行される。

対馬丸は、187隻の疎開船の中のひとつ。1944年8月21日に学童約2,300人、一般疎開者1,400人を乗せて那覇港から出航。8月22日にアメリカ軍からの魚雷を受け”撃沈”された。

※結果的に、沖縄の地上戦は1945年4月から始まってしまった。 

 

「知らなかった、ぼくらの戦争」から以下引用する。

対馬丸は「疎開船」と称して戦火を回避する名目で運行が決まり、およそ千八百名の子どもと老人と教員を乗せて、沖縄本島那覇港から一九四四年八月二十一日に、九州の長崎港へ向かった。「撃沈」は予測できたはずだ。が、政府の避難命令に従った対馬丸は、まんまと米軍の罠にはまり、魚雷を食らった。生き残ったのはわずか三百名。

生き残ったのはわずか三百名。

 平良啓子さんは、対馬丸の撃沈により祖母と兄、妹さんの死を体験。いかだにつかまりながら海を漂流後漁船に助けられ奄美大島に収容。1945年2月に沖縄島に戻るも、4月に沖縄戦が始まってしまう。

この対馬丸。なんとポンコツだったそうである。以下引用。

親たちは軍艦で運んでくれと要望を出していて、当局側も「わかった。用意する」と約束していたそうなんです。ところが当日、待っていたのは対馬丸というポンコツの貨物船でした。

「待っていたのは対馬丸というポンコツの貨物船でした」

 

まだ続く。

出航したときには「和浦(かずうら)丸」「暁空(ぎょうくう)丸」という疎開船、そして護衛の軍艦も二隻(せき)ついて計五隻でしっかり船団を組んでいたんです。ところが翌朝、目が冷めて甲板に上がると、対馬丸以外の四隻の姿がないんですよ。みんなアメリカの潜水艦の動きを察知して、逃げたんだそうですよ。でも対馬丸は三十年も前につくられた老朽船でのろかったので、うっちゃられたんです。

※うっちゃる=捨てる、放っておく

捨てて去られた!?

アメリカ海軍は疎開船団の予定航路をおおよそ把握していたという。日本軍の暗号を最初から解読していて、敵国の臣民で満杯の対馬丸を手際よく海底に沈めた。

最初からバレバレだった。

平良啓子さんは、6日間の漂流後、奄美大島の向かいにある枝手久島(えだてくじま)に漂着。丘の上に登り漂流者を探索していた漁船を発見し助けられる。

ポンコツな船を提供しておきながら、敵(アメリカ)がやってきたら自分たちだけがこそっと先に逃げる。無責任野郎(失礼)たちの都合で取り残された子どもたちが、海に放り出されて死んだ。それが対馬丸におこったできごと、なのである。

 

当時の日本軍は、対馬丸が撃沈されたことを隠蔽するため口封じまでしたのだとか。対馬丸のことをもっと知りたいとおもった。 

 

 

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6月20日まで臨時休館「対馬丸記念館

で、対馬丸記念館に行くも、「臨時休館」の札が……。この事態こそが、緊急事態宣言下ということなのである。^_^

 

ここでいきなり余談になる。対馬丸記念館のサイトに、

沖縄からの疎開は九州(3県)に5,586人となっています。宮崎県に2,643人、熊本県に2,602人、大分県に341人です。
(仲間智秀「沖縄県学童団疎開状況」昭和19年10月1日より)

との記述があった。 

 

 「熊本県に2,602人」。この2,602人の中の何人かは、作家石牟礼道子が十代のころ代用教員をしていた熊本の小学校に疎開していたはずだ。石牟礼道子がそのときのことを記述している。

また忘れられないのは、沖縄の疎開児童が小学校に来たとき、先生たちまでもがその子たちを差別したこと。その差別されている人間の目の色が深く美しかったことです。「石牟礼道子全集」より

 疎開しても差別されていたとか。戦争には区別など存在しない。戦争には差別だけがついてまわる。

 

対馬丸の生存者数について

対馬丸撃沈事件の生存者数
原則は「不明」です。 

 原則は不明とされている。当時の日本軍は、詳細な被害を調査することすらしていないからである。 どこまで軽視されていたのか。

以下、対馬丸記念館のため波の上・若狭エリアを散策した記録。

 

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マンションエントランスのあだんの樹

 マンションの入口に迫力あだん。こんなマンションなら喜んで住むよ。

 

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山羊の散歩

山羊の散歩に出あった。那覇です。ゆいレール県庁前駅から徒歩15分ほどのエリアです。山羊が散歩中です。山羊が散歩中です。 

 

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波の上ビーチ

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宣言下ではビーチも封鎖

誰もいない波の上ビーチを初めて見た。左側にある大きな岩の上にあるのが波の上宮。

 

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海に向かって御願を

堤防のはしっこで、「御願(うがん)」をされていた。お酒の1Lパックを手に持たれていたので、ピクニックじゃなく「御願」なんだとわかった。

※御願=沖縄式の拝みの儀式のこと

 

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波の上宮(なみのうえぐう)

波の上宮。以前は、インバウンドの方たちがゆかたを着てお詣りするプランが運用されていた。そのころはゆかた姿の男女をよく見かけたが。あの光景も、もう見られないのだろうか?

 

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スナックも休業中

ドアの前に植物を置いてバリケード封鎖。

 

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どこにでも生える南島の植物たち

 

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親川鮮魚店

たまらない佇まいの鮮魚店。看板をよく見ると「惣菜、サシミ、肉、野菜」って書いてある。(ぜんぶやん)このような建物もやがてなくなってしまうのだろうか? 

 

 

 波の上エリアは、住所表記では「若狭」になる。ゆいレール県庁前駅、または旭橋駅から徒歩圏内(10~15分)。

このエリアは、那覇のなかでも比較的光が多いまちという印象。那覇というまちは、じつはダークな場所が多いのだけれど、若狭からは明るいものを感じる。海が近く高層建築が少ないこともあるのかも。

 

対馬丸記念館のほかには、沖縄の民主主義のために生きた瀬長(せなが)亀次郎記念館がこのエリアに位置している。このあたりを散策していると、山羊の散歩に出あえるかもしれません。

 

対馬丸記念館 

tsushimamaru.or.jp


1939年の第二次世界大戦から1945年9月7日降伏文書に調印までの年表

tsushimamaru.or.jp


瀬長亀次郎記念館

senaga-kamejiro.com

 

「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード

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「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード著(小学館

「戦争とは、いったいなんなのか?」を、アーサー・ビナード氏と23人の体験との対話を通じて探る。

アメリカ在住の日系人真珠湾攻撃の実際、択捉(えとろふ)島の疎開者、毒ガス島、硫黄島満州ヒロシマナガサキ、スガモ・プリズンなど、太平洋戦争を構成する要素を提示しながら、その下で生きた人たちの言葉をつむぐ。

 

沖縄戦に関する人物として、大田昌秀(おおたまさひで・19歳で鉄血勤皇隊に参加。1990年から8年間沖縄県知事をつとめた)氏と前出の平良啓子さんが登場。大田昌秀氏の対話の「沖縄における皇民化教育の純粋培養」に関するくだりは必読である。 

 

アーサー・ビナードヒロシマに関する著書を発表する詩人。ヒロシマで焼け残った遺品をテーマにつづる写真絵本「さがしています 」(童心社)。紙芝居「ちっちゃいこえ」(童心社)などがある。

 おまけ

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コンクリートだからこその影

 6月に入ると光が明るくなった。コンクリートに写る影が美しい夏。この夏の光があるからこその沖縄なのだ、とおもう。