2021年4月12日にリニューアルオープンした「ひめゆり平和祈念資料館」(以下、祈念館と表記)に行った。
「戦争からさらに遠くなった世代へ」をテーマに展示内容が改変されたと聞いていたこと、加えて下記のツィートが気になったから。(同じ島の中にいるので行かないと)
コロナの影響下で、沖縄への修学旅行生が激減。団体旅行に支えられている一面がある戦争の資料館は収入も激しく落ち込んでいるとのこと。「ひめゆり平和祈念資料館」は、民間が運営していることもあって、入場者が激減することは今後の運営にも大きな影響があります。そこで、今回寄付が呼びかけられました。
【ご寄付のお願い】感染症による影響の長期化で、当館は経営上の危機に直面しています。昨年度は入館者が前年比86%減となりました。民間で、入館料収入によって運営してきた当館にとって大変苦しい状況となりました。どうかご無理のない範囲でご寄付いただけますと幸いです。https://t.co/nCH1wiEiMd
— ひめゆり平和祈念資料館 (@himeyuri_peace) 2021年6月6日
寄付は下記ページから。クレジットカード、Amazon Payが利用可能。
現地でも寄付は可能
特に運営の危機などの訴えは提示されていませんが、現地にも募金箱が置かれているのでそちらからも寄付が可能です。
自治体も対策を開始
現地に住んでいるとあらためて見に行く機会は少ないのですが、沖縄でも自治体が入場券の配布を始めるなど対策がとられています。
MONGOL800のキヨサクさんによるライブも企画されています。(終了しました)
「ひめゆり平和祈念資料館支援LIVE~ひめゆりの詩~」
— ひめゆり平和祈念資料館 (@himeyuri_peace) 2021年6月17日
■出演:UKULELE GYPSY(キヨサクfrom MONGOL800)/古謝美佐子 ■配信:6月23日(水)12:00~ アーカイブ6月30日(水)23:59まで視聴可。イープラス「Streaming+」での配信です。
■チケットはこちらhttps://t.co/OjtZEU6AlQ
2021/7/12追記
コロナ禍による当館の危機に対し、多くのご寄付をいただいております。みなさまに心より感謝申し上げます。
— ひめゆり平和祈念資料館 (@himeyuri_peace) 2021年7月9日
7月4日までに寄せられたご寄付は8917件、50,863,897円にのぼり、コロナ禍での厳しい運営状況のなかで、大きな助けとなっております。(続)#ひめゆり平和祈念資料館支援 pic.twitter.com/y9QpFXWeCl
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ひめゆりさんに会いにゆく
筆者が祈念館を訪ねたのは2021年6月17日。入り口を入ると資料館の前庭があり、相思樹の木や沖縄戦のできごとを時系列で理解できるパネル、ひめゆりの塔などが並ぶ。
第三外科壕は、深さ14m程度。当時ははしごで上り下りをしていたとのこと。
門を入ると中庭が見える。(スマホ撮影だと遠く感じるけれど)真っ先に中庭が目に写るように計算されている。この中庭を目視しただけでこの建築物の好ましさが伝わってくる造り。(設計は、玉那覇有紀氏)
※受け付けで体温測定があります。
「相思樹並木の木陰をぬけて学校へむかう。初夏には黄色い花が咲き乱れ、落ちた花がじゅうたんのように広がる」
リニューアルによって大きく変わったのが、画像のようなイラストレーションの多用。イラストレーションを使用することにより写真として記録が残されていない史実が表現できること。また、見るものに親しみを覚えさせる効果がある。
この絵からは、戦争に巻き込まれる前ののどかな通学の様子がわかる。セーラー服を着てかばんを持って通学する生徒たち。こちらに向かって手をふる生徒の姿と目があえば、見る者は一気に画面の中に吸い込まれ、この子たちが生きていた世界に入りこめるのだとおもう。
セーラー服からもんぺの生活へ
祈念館の展示前半では、日常から戦争当該地へと変化していく様子を生徒たちの学校生活を通して伝えている。学校の先生にあだなをつけて遊んでいた生徒たちの笑い声が聞こえるよう。その後、戦争の流れに巻き込まれていく過程が目で見て理解できるようにやさしく展示設計されている。
セーラー服からもんぺ生活への様子をざっとメモする。
※館内は撮影禁止のためテキストのみ
1940年 なぎなた訓練開始。
1941年 セーラー服がへちま襟でひだのないスカートの制服に変更になる。そのへちま襟の制服も標準服と呼ばれるものになり、やがて全国統一の質素なものに変化していく。
この年、ひとり3発の実射撃訓練。
音楽の演目に軍歌が増える。
敵国アメリカ・イギリスの言語である「英語」が排除。
勤労奉仕の時間が増加し節約と質素な生活様式がよしとされるようになる。
この年の12月8日、日本軍によるアメリカ真珠湾への奇襲攻撃。
太平洋戦争始まる。
1942年 軍隊式の行進訓練開始。
1943年になると、スカートの代わりに毎日のもんぺ着用が必須となる。
「爆弾投下!」の合図で地面にふせる避難訓練。
畑に野菜や芋、大豆を植えて食料増産作業開始。
1944年 サイパン島陥落。
日本軍部隊が配備され、沖縄戦の準備が始まる。
1945年 オキナワに戦争がやってくる。
4月1日、沖縄本島中部読谷村(よみたんそん)にアメリカ軍が上陸。
沖縄島での地上戦開始。
初めて体験する戦争だった
沖縄戦は、学徒たちにとって”初めて”身近に起きた戦争だった。
それまでの戦争は、学徒たちにとって、アメリカや中国や、サイパン、満州(中国)など海の向こうの”遠い世界”のできごとだった。戦況の変化(悪化)により、今度は自分たちが巻き込まれるという想像すらしていなかった状況。
「ひめゆり学徒隊」とは?
沖縄県島尻郡真和志町間切安里村(現・那覇市)にあった沖縄師範学校女子部(略称、女師)と沖縄県立第一高等女学校(略称、一高女)から、女子生徒222人と引率教師18名(合計240名)から編成された学徒隊のこと。
「ひめゆり学徒隊」は”看護要員”だった
「ひめゆり学徒隊」に沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員としての動員命令がおりたのは、1945年3月23日。以降、240名の学徒隊は、沖縄守備軍(第32軍)直轄下の沖縄陸軍病院に看護要員として動員。
戦禍での”病院”とは名ばかりのもの。実際は壕の中に粗末な木の2段ベッドが並べられただけの暗がりだった。当時は、沖縄本島の南部地域で40近くもの横穴壕が病院として機能していたという。
学徒たちはその中で、おにぎりを配ったり、死体を埋葬したり、負傷者の体に湧くウジ虫をとったり、麻酔なしで切断した血の流れる足を処理しながら日々を過ごす。死んでしまった仲間の死体から遺髪や爪をとる仕事もあったという。
じりじりと迫るアメリカ軍。心理的に物理的に追い詰められる中での使命。日に日に小さくなるおにぎり。暗い壕の中で、学徒たちはどのような気持ちで日々を過ごしたのだろう?
そして、6月18日、日本軍の指令による突然の解散命令。
「君たちは、今日までよくがんばってくれた。今日からは、自らの判断で行動するように」
「そんなこと言われても!!」「どこに行けというの(壕を出ること=アメリカ軍にやられてしまうことなのに!!)」
結果 「ひめゆり学徒隊」240名のうち136名が戦死。
136名のうち117人は、日本軍の解散命令後に命を落としている。
戦争のことは、どう受けとめればいいのかむずかしい一面がある。
あらがえない力に飲みこまれた史実は大きすぎて。
知ったからといってなにもできないし、過去に起こったことだし。
けれども、死んでしまった。そして生き抜いた人たちがいたことを、
ただ、知っていてあげるだけでいいんじゃないかとおもう。
ひめゆりさんに、また会いにゆこうとおもう。
ここは、この沖縄島で生きていた彼女たちに出あえる場所なのだから。
そして「最近はどう?」などと声をかけてみたいとおもう。
「ひめゆり」というのは、わたしたちの学校の愛称です。
那覇市安里の校舎で、13歳から19歳の生徒、
約1150人が学んでいました。
勉強やスポーツにうちこみ、友達との楽しい時間を過ごした学校は、
1945年の沖縄戦によって、なくなってしまいました。
戦争は、学校だけではなく、友達や先生方の大切な命をも奪っていきました。
戦争は、いつも身近にあったのに、本当の戦場の姿を知らなかったわたしたち。
わたしたちは、体験してはじめて知った、戦争の恐ろしさ、命の尊さ、
平和の大切さを伝えていきます。
※安里=あさと
【ひめゆり平和祈念資料館・バスで行くには?】
ゆいレール「旭橋」にある那覇バスターミナルから「琉球バス 89番 糸満(高良)線」に乗り、最終地点「糸満バスターミナル」で下車。片道590円
糸満バスターミナルから、「82番 玉泉洞・糸満線」に乗り「平和祈念堂入り口バス停」で下車。降りて左手側に進むと「ひめゆり平和祈念資料館」。片道330円
※バスの中での両替は、500円玉と1,000円札のみ。
※「82番 玉泉洞・糸満線」は、1時間に1本のみ。
※糸満バスターミナル周辺には、コンビニなどの商店はなし。トイレは事務所にひと声かければ借りられます(非常にローカルな設備です)。