あまはじノート

amahaji note

お前はここでこれからアイヌとして生きろ!

 

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2021年6月23日、沖縄糸満市平和祈念公園にて。武 幸二郎さん

武 幸二郎(たけ こうじろう)

1982年・北海道生まれ。
祖母がアイヌ、祖父が釜山(プサン)出身の朝鮮人
マアルハートバンドで、ヴォーカル、ベース、作詞を担当。
派遣の仕事で原発の塗装工を経験。

 

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「マアルハートバンド」具志堅さんハンスト現場でライブ!

www.youtube.com

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バンドの相棒、ヴォーカル・ギター担当の田村雄一さんと

沖縄平和祈念公園での具志堅さんのハンスト期間中、現地を訪れて演奏を聞かせてくれた「マアルハートバンド」。沖縄や原発のことを楽曲のテーマにする彼ら。


ベース担当の武 幸二郎さん(写真右)は、アイヌ人の祖母、釜山(プサン)出身の朝鮮人を祖父に持つ方です。人々が大陸や島々を超えてダイナミックに動いていた時代。強制連行された夕張炭鉱から逃亡したという武さんのじいちゃん(他者が呼ぶときは敬意をこめて「おじいさま」とすべきですが、ここでは「じいちゃん」とさせてください)についてお話をうかがいました。 


じいちゃんに意味のわからない言葉で怒られる
武 幸二郎 ずーっとギモンに思っていたんです。子どもの頃自分がいたずらをしたときに、じいちゃんが怒るんですけど、僕が理解できない言葉で怒るんですよね。わからない言葉なんで不思議だったんです。

僕のおばあちゃんがアイヌだから、おばあちゃんがアイヌ語を日常的に使うんです。それで僕もアイヌ語は少しだけできるんですけど。アイヌ語でもないような気がしていて……。

じいちゃんが亡くなった時に、「じいちゃんがおれを怒った時、ぜんぜんわからないことばで怒ってたんだけど、あれはアイヌ語なの?」ってばあちゃんに聞いたら、「アイヌ語じゃないよあれは。じいちゃんは朝鮮人なんだから」と。「えっ?そうなの?」「お前にも本当のことを言わないといけないね」って。

 

じいちゃんは朝鮮から連れてこられた炭鉱労働者
祖母 じいちゃんは、戦前に朝鮮の釜山から連れてこられて、夕張炭鉱で強制的に働かされていた炭鉱労働者なんだよ。仕事がすごくつらくて脱走したんだよ。脱走してここ(日勝峠=にっしょうとうげを超えたところにある平取町=びらとりちょう)に逃げてきたんだよ。

アイヌでもないし日本人でもないやつがいるなって思って、「おまえアイヌじゃないだろ? どこから来た? おまえ日本人でもないよね」って聞いたら「夕張炭鉱から逃げてきた」って。

「家さ上がれ。お前はここでこれからアイヌとして生きろ!」って。当時は、炭鉱から逃げてきたってことは、捕まったら殺されるってことだからね。それで一緒に暮らすようになって結婚したんだよ。

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アイヌ刺しゅう。北海道平取町二風谷(びらとりちょうにぶだに)の方の手によるもの ※筆者所有

自分はなにをやらかしたんだって
武 幸二郎 僕、その話を聞いて、うちのばあちゃんもすごいなっておもったけど、じいちゃんも夕張炭鉱から逃げたなんてすごいなと。けど、真っ青になったことがひとつあって。じいちゃんが脱走するほどにつらかった夕張炭鉱に、じいちゃんを連れていったことがあったんです。知らなかったとはいえ、自分はなにをやらかしてしまったんだって!

家族旅行で行った夕張
うちでは、家族旅行にいくときいつもおじいちゃんおばあちゃんも誘ってたんです。ある年に、「今年どこ行こうか?」ってなった。その頃、TVで夕張炭鉱跡地にできたリゾート「バリバリ夕張」のCMが流れてて、「おれここ行きてえ」とか思ってうちの親に行きたいって言ったんですよ。

じいちゃんがなんか変
現地に到着したら、じいちゃん入り口のベンチに座ったまま動かないんです。今日は様子がおかしいなって思いながら、「じいちゃん入らないの? 行かないの?」って。「じいちゃんは今日は遊園地で遊ぶとかはいいよ。山(夕張山のこと)を見てるよ」と。


石炭の労働者のことを覚えておけよ
遊園地の後に行った併設の夕張市石炭博物館へはじいちゃんは入館しました。そこで、「夕張の炭鉱の歴史だとかは教科書とかにはのらないから、石炭の労働者がすごく大変な目にあったってことはきちんとこれから先も覚えといたほうがいいぞ」って言ってたんですよね。その時に、自分が朝鮮人であることここで働いていたことなどはひとことも言わなかった。 

 
その後ばあちゃんから、じいちゃんが強制連行で日本に連れてこられて夕張炭鉱で働いていたことを聞くわけですけど。もうすごく涙が出てしまって……。じいちゃんにすげー申し訳ないことした、じいちゃん怒ってるべなと。

するとばあちゃんが、「いや。じいちゃん怒ってないよ。怒ってるんだったら、じいちゃん一緒に家族旅行には行かないよ。むしろ、自分が働いていた場所を孫たちに見せられてよかったと思ってるよ。死んだときに誰かが語ってくれるだろうと。ここでたくさんの人が働いて亡くなってるんだ、それを忘れるなよと。これから先も炭鉱の歴史を覚えておけばいいんだよ」と。

 

原発の下請けを経験
じつは僕、原発の施設で働いていたことがあるんです。福島と六ヶ所。4次下請けぐらいの塗装工なんで原子炉の中には入りません。まだ未成年のときに使われてました。一応バッジ(被曝量を測る)はつけますが、被爆管理手帳はもらえないです。未成年だから。

その頃は、塗装工として派遣されただけで、原発に関する知識がなかったんです。六ケ所(ろっかしょ)村の食堂で「いなかに帰ったほうがいい。ここは君みたいな若い人が働くとこじゃない。ヒロシマナガサキの原爆のことはわかるか? ヒロシマナガサキの原爆を作れちゃう放射能をここで作ってるんだよ。ガンになるよあなた」


自分が感じたことを歌に
それでええー! やばいって。いきなり帰ったほうがいいよとか言われてびっくりして切り上げて帰って。音楽活動の中でこういうことも歌っていかなきゃなと思っていたら3・11が起こって……。

それからは、自分の原発労働者として働いていた経験や血の混じる泥水を飲んで生きてきたっていう島袋文子おばあの戦争体験を歌ったり、原発のことを歌ったりしています。瀬長亀次郎が好きなんでそのことを書いたり戦跡めぐりをしたりすることもあります。


誰かが言ったことじゃない、自分が感じたこと。ぼくはこう思ってます。あなたはどうですか? と決めつけない歌詞を意識しています。

島袋文子さん辺野古新基地建設に反対し、米軍キャンプ・シュワブゲート前で座り込みを続ける人。

 

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マアルハートバンドのふたり

7/1追記
6月23日の午前中、ハンスト会場のとなりで「沖縄全戦没者追悼式」のリハーサルがおこなわれていました。毎年追悼式では県内の中学生が書いた詩が発表されますが、その「平和の詩」の一部が聞こえたのです。

「暗黒の過去」「あの過ち」という”日本語”が筆者の耳に届きます。その言葉にモヤモヤする筆者。武さんに今回のお話を聞いたのは、そのモヤモヤをかかえた筆者が、「歌を作る人として使わないようにしている言葉はありますか?」と質問したのが始まり。


会話の中で、武さんの「ばあちゃんがアイヌ」「じいちゃんが釜山出身の朝鮮人」「夕張炭鉱を脱走した人」だとわかったところからレコーダーを起動。質問の答えはすっ飛ばしたまま戦前の北海道に瞬間移動しました。

武さんのじいちゃんが逃げた先がアイヌ部落だったこと。このエピソードこそがこの話の胆力をになう部分で、生か死かの世界線をわけたのではないかと? いや、生か死かを背負って逃亡したからこそ行き着いた先がアイヌ部落だったのかもしれないなと。


史実を知るとその重みにつぶされそうになることがありますが、国境線や国のルールを超えてインディペンデントな道を選びとった人たちのたくましさを知ることは、生きていくためのもうひとつの視点につながります。


武さんのじいちゃんが堂々と選びとって見せてくれた物語。「お前らもしっかり生きろよ!」と向こう側の世界から笑っているような気がします。

 

 筆者より:朝鮮から日本にやってきた武さんのじいちゃん。生涯生まれ故郷の釜山に帰ることもなくアイヌとして生きたその人生。自分が夕張炭鉱で労働に従事したことを隠し、孫の武さんに「炭鉱で亡くなった人がたくさんいたことを覚えておけ」とおっしゃった。

武さんのじいちゃんのことを考えていると、Soul Flower Mononoke Summit(ソウル・フラワー・モノノケサミット)の「竹田の子守唄」を聴きたくなった。


この楽曲は京都が舞台なのだけれど、バンドのメンバー伊丹英子(ひでこ)が朝鮮の楽器チャンゴを叩いているのだ。人生を鼓舞するようなチャンゴの音、どこか豪胆なところがあったというじいちゃんに届くかな?

はよも行きたや この在所こえて 向こうに見えるは親の家(うち)

向こうに見えるは親の家(うち)

「竹田の子守唄」より


「竹田の子守唄」:京都に伝わる子供の労働歌。被差別部落に出自を持つ10歳ほどの子どもが奉公に出され、労働として子どものおもりをする。自分は学校へ行ったり友人と遊んだりできない、家にも帰れないのだという少女の心情が表現されている。

著作権の都合上リンクは貼れませんが、ようつべ(わかりますよね?)で聴けるとか聴けないとか。興味がある方はご自分の意志でどうぞ。哀切が感じられる美しき楽曲です。 

 

武さんのおじいさまが、日本に強制連行されたのは昭和13年頃なのだとか。当時の朝鮮人労働者の強制労働者としての流入は驚くほど多いのです。※下記サイトが参考になりそうです。

archives.c.fun.ac.jp

昭和20年8月15日の敗戦当時、函館市域に在住していた朝鮮人や中国人などの外国人労働者を調査した正確なデータはない。ただ、朝鮮人労働者に関していえば、戦時下の労働力不足を補うために、中国や植民地の朝鮮から「働き口」があるなどと、日本へ強制的に連れてこられて、炭鉱・鉱山や土木工事や造船現場などで働かせられた人たちがいた。「函館市史」より 

 

朝鮮人の強制連行が始まるのは昭和14年10月からであるが、以後同20年までの間に北海道へ連行された朝鮮人労働者の総数は、約14万5000名前後と推定されている。こうした朝鮮人労働者の労働現場は、おもに炭鉱と鉱山であった。「函館市史」より