宮古島「アリランの碑」

沖縄県宮古島市野原(のばる)にある「アリランの碑」に行った。

農地の中にぽつり、ぽつりと住宅が点在するエリア。畑に囲まれた小さなスペースに「アリランの碑」はあった。

※「アリラン」は朝鮮民謡の曲名

 

太平洋戦争(1941年~1945年)末期、宮古島には16ヶ所の慰安所があったといわれている。「アリランの碑」が置かれているのは、そのうちのひとつ。野原(のばる)の慰安所にいた朝鮮の女性たちが洗濯(当時は井戸で洗濯をしていた)の行き帰りに休憩していたという場所だ。

 

慰安所=旧日本軍が日本国内や植民地として支配した地域に設置した兵隊の性欲処理のための施設。日本国内や植民地から連れてこられた女性たちへのリアル性加害が公然とおこなわれていた場所である。

 

アリランの碑

宮島にも慰安所があった

当時の宮古島には、大日本帝国の陸海空軍隊33,000人ほどが駐屯していた。3,000人の性欲処理のために作られた慰安所は、宮古島・伊良部(いらぶ)島内で16ヶ所。
慰安婦(ここでは便宜上使用)たちの明確な数字はわかっていないが、1ヶ所に10人いたとしてぜんぶで160人ほどの女性たちがいたのではないかと推測されている。


慰安婦たちは植民地や占領地から連れてこられたが、宮古島には朝鮮の女性がいちばん多かったという。

 


写真前方が「アリランの碑」。後方にあるのは、太平洋戦争当時慰安婦とを強要させられた11カ国の女性たちの母語ベトナム戦争当時韓国軍による性加害を受けたベトナム女性たちをあらわすベトナム語の12の言語で「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈る」と刻印された記念碑。

 

 

宮古島慰安所のようす
書籍「戦場の宮古島と『慰安所』」日韓共同「日本軍慰安所宮古島調査団 著、 洪ゆん伸 編集、(なんよう文庫 発行)によると、宮古島慰安所だけに見られた特徴があったそうだ。

1:平坦な土地の成り立ちから他の慰安所のように隠された場所に設置することができなかった。島全体に慰安所が分布していたため、一般の市民も慰安所慰安婦たちの姿を目にする機会があった。
2:宮古島の人たちは、慰安婦たちを差別的な目線で見ることは少なかった。
3:宮古島の人たちと慰安婦の間には、親しみをこめた日常的な交流があった。

 

アリランの碑・裏側

アリランの碑」は、野原(のばる)で慰安婦たちがひと休みする姿を子どものころによく見かけた元の与那原博敏さんがその姿を忘れないために石を置いたのがはじまり。
宮古島では2007年~2009年まで慰安婦の実態が調査され、韓国と日本の支援団体が「アリラン」の碑」として2008年9月7日に正式に設置されている。

 


風速5メートルの風と南島の湿気。
朝鮮の姉さんたちが歩いたかもしれない道。
当時は、どのような風景だったのだろうか。
宮古島の言語は、朝鮮の姉さんたちにはどのように聞こえたのだろう?
いったいここがどこなのかもわからない場所で、日々なにを思っていたのだろう?
言葉を残さなかった姉さんたちの気持ちは、今となってはわからない。
「姉さんたち、今はどんな気持ち?」と聞いても返事はないだろう。

 

ただ、現地にしばらくたたずんでいると、木綿の衣装を着た姉さんたちが「きょうは、朝鮮の子孫がここに来ているみたいね」と話しているようにも思えた。※筆者の祖母は朝鮮半島からの越境者である

 

食べものを供えるのは管理上よくないかと思ったけれど、気持ちとして少しだけ。ビスケットと朝鮮の晴れ着を思わせる色合いのグミを石の下においた。

カラリとした風を受け毅然と立つ「アリランの碑」。
サトウキビが、カラ、カラ、カラ、ザワ、ザワ、ザワと乾いた音を放っていた日。
宮古島にいる朝鮮の姉さんたちに、あいさつをした。

 

アリランの碑 沖縄県宮古島市上野


※「朝鮮」という表記を使っているのは、太平洋戦争末期沖縄戦のころ、朝鮮半島はまだ分断されていなかったから。