あまはじノート

amahaji note

大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」

大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」(藤原書店

長年にわたり、戦争や紛争の中に生きる市井の人々をとらえてきた大石芳野(よしの)さんの写真集「戦争は終わっても終わらない」。太平洋戦争が主題(本の中では「アジア太平洋戦争」と表記)。

長崎、広島、大久野島(おおくのしま)、第五福竜丸東京大空襲、中国、韓国、ニューギニア、沖縄をモノクロ写真で残している。

写真集は、長崎の被爆のマリア(カトリック浦上教会の祭壇にあったマリア像。原爆の爆風に吹き飛ばされ目が空洞になり頭部だけが残った)からはじまり、沖縄戦で亡くなった人の数(=23万6095個、1996年撮影当時の数)だけ積み上げた小石の山の写真でおわる。

ポートレートや自然物、建物、瓦礫、ガラス瓶、壁に打ち付けられた太い釘……”戦争”の二文字を頭から消して眺めれば、日常を写しただけのようにも見える写真が並ぶ。

けれども、ポートレートに写るのは、長崎や広島で被爆した人なのであり、大野久島でアジア・中国侵略時に使用した毒ガスを製造し後遺症を負った人なのであり、10代で連行され日本軍の慰安婦の役目を強制された人なのであり、家族を原爆や爆撃、集団自決、飢えで亡くした人たちなのである。

また、被爆した楠や桜の木、坂道、小学校の壁。B29が放った爆弾の炎に焼け焦げたアパートの天井、黒くすすけた配管の跡。パプアニューギニアの島々に捨て置かれた日本軍の船や戦闘機などすべてが、あの太平洋戦争にかかわる写真なのである。


写真にそえられたキャプションは一見すると淡々とした文字列にすぎないが、太平洋戦争が破壊した生命と生活を伝えている。

キャプションをいくつか抜粋する。

長崎

下平作江さん(1935年生)は、爆心地から800m、油木の防空壕被爆した。母、姉は黒焦げになって即死し、兄は「死にたくない」と言いながら3日後に息絶えた。妹は差別に苦しみ、10年後に列車に飛び込んで自殺した。

「戦争は終わっても終わらない」p.20より


広島

寺前妙子さん(1930年生)は爆心地から530mの電話局に学徒動員で勤務中だった。ピカーっとして気絶し、まもなく「おかーちゃん、たすけて」の声ばかり。左目は飛び出し顔中も大怪我をした。6人兄弟の一番上。妹は全身を火傷して亡くなり、弟3人は間もなく赤痢になって亡くなった。整形手術を3回した。

「戦争は終わっても終わらない」p.54より


東京

角谷キノさん(1908年生)。2歳の娘を背負って言問橋に行ったが、ひどい混雑だったので川沿いの墨田公園へ降りた。炎がゴーゴーと音をたて、燃える木々の波で真っ赤になっており、風に煽られた木が飛んできた。背中の子が「熱い」と叫んだ瞬間、ねんねこも頭も焼けてなくなった。

「戦争は終わっても終わらない」p.101より


沖縄

仲間ナツさん(1924年生/左)は戦況が厳しくなり2歳の息子を連れて壕を転々と逃げた。ある壕で、軍医が「幼子は泣き声が敵に聞こえるから殺す」と言った。懇願したが「この子を犠牲にして他の人たちを助けると思って」と無理やり注射をされた。


「戦争は終わっても終わらない」p.184より

長崎、広島、東京、沖縄。別々の場所で、多くの人が家族を亡くした。沖縄においては、日本軍の指示により集団自決が起こり小さな子どもまでが殺されてもいる。


全227ページ。それぞれの体験は大きいが、一枚一枚の写真は寡黙だ。叫ぼうともせず、罵倒しようともせず生きてきた年月を、どの一枚も重さを変えず同列に並べることにより、戦争の非情さと終わらなさを静かに語っている。

【沖縄】
沖縄編では、阿波根昌鴻(=あはごんしょうこう。戦後の米軍統治下で平和運動をおこなった活動家)さん、平良啓子(米軍の爆撃により多くの死者を出した集団疎開対馬丸の生存者)さん、戦後40年ぶりに第一外科壕に入ったひめゆり学徒隊の人たちの写真。

沖縄県糸満市にある「平和の礎(いしじ)」の除幕式。新基地建設が始まる前、鉄条網だけで区切られていたころの辺野古の砂浜、西表島の「忘勿石(わすれないし)」、炭鉱跡の写真も掲載。

 

【解説】

アジア太平洋戦争は、1941年12月8日、日本軍によるアメリ真珠湾への攻撃からはじまり、1945年9月2日、アメリカ・イギリス・中国から出された無条件降伏文書に日本が調印したことにより終わった戦争。


大野久=おおくのしま。中国侵略時に使用した毒ガスを製造していた瀬戸内の島。

第五福竜丸=だいごふくりゅうまる。アメリカがビキニ環礁でおこなった水素爆弾実験での放射性物質を浴びたマグロ漁船、乗組員23名のうちひとりが被爆の半年後に死亡。
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