カメラがとらえていなければ、だれにも知られることがなかった。
ヘッドランプにうかびあがるやわらかい雨、そしてふわりと迷いながら舞うほこり。
気づきにくく、みえにくい。が、そこに焦点があえば、たしかにあるし、いる。
『骨を掘る男』を観るなら、やはり沖縄 桜坂劇場で。
2階ホールA。観客は、10人以下。桜坂劇場のこれが通常運転。
(”観客がすくない”といいたいのではない。むしろ”ふさわしい”。ちなみに、桜坂劇場での上映終了 3日前)
まず最初に。
小さな石ころが投げこまれる(暗喩ね)。
「この映画には、大げさな音や場面はないんですよ」と。
いやこれは、投げこまれていたことに、あとで気づくのだけれど。
戦没者の骨が埋まって79年。
具志堅さんがガマフヤーとして遺骨を掘りはじめて40年。
土のなかで息をひそめていた人たちと、その人たちをさがし続ける男がひとり。
スーパー・カブに乗って、トコトコ現場にむかう具志堅さん。
コンコンと赤い土を掘りながら、「いるんだったら、出てこいよ」と声をかける。まるで、まっくろくろすけ(『となりのトトロ』)に話しかけるかのように。
まっくろくろすけも戦没者も、どこにいるのかわからないのはおなじだ。
「たぶん、食べたことないお菓子だと思うけど。手作り」といいながら、姿のない人たちにふるまう具志堅さん。
ひとり団地の前で。トラメガをカブの荷台にくくりつけ、「今、戦没者の遺骨がまじる糸満の土が、辺野古新基地建設に使われようとしています」とスピーチする具志堅さん。(おそらく、だれも聞いていない? それでもやるんだ。いいぞ!)
まあ、えっ、えっ? ってなりますよ。
遺骨収集を40年もつづける人のドキュメンタリーを観にきたはずなんだけど。
まるで、畳職人を40年つづけてきた人の映画みたい。(具志堅さん自身、遺骨堀り”職人”ともいえる人ですが)
じゃーん、とかドーン! とか、大げさな言い切りとか、ないのね?
そして、ここがどこのガマで、この人がだれで、なんのためにここにいるのか、の説明もはぶかれる。
声での説明も文字での説明もないんですよ。
なんらかの創作や制作をしている人なら、むむむ、と思うはず。
通常は、説明をいれて、つど理解してもらいたくなる凡庸な欲望をおさえられないから。
生きている人間の時間には声や会話があるが(奥間監督の戦没者家族である大叔母をさがす場面では、会話やモノローグがはさまれる)、戦没者の時間にはない(=うばわれている、またはサイレントである)ってことなのか。
ジャーナリズムと文学の違いといってしまえばそれまでなのだけれど。1回の鑑賞では、わからない!!
ボーッと空気をふるわせる汽笛のような、どこかぼんやりとした時間。
死者の時間って、そういうもの?
だとしたら、この映画に流れるのは、おそらく死者が持つであろう100年単位の時間だ。
遺骨の収集は、「ずっと終わらないですよ(具志堅さん)」。100年またはそれ以上つづく。
”沖縄「平和の礎」名前を読み上げる集い”の様子が映される最後部。
この名前の読み上げも、おそらく100年以上つづける意志。
そしてこの作品『骨を掘る男』も。100年以上残る。
沖縄をとりまく身勝手に区切られた"数字”にあらがうように。
ゆったりとした長い時間こそ沖縄のものだよ、と。
意外だった具志堅さんと監督のツーショット。
それにつづく、”沖縄「平和の礎」名前を読み上げる集い”の参加者たち。
そこには、ただ、風だけがふいていた。
いい場面だった。
死者とともにいることは、痛くてつらいことだけではないんだな。
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鑑賞したことを忘れさせるぐらいの、自我の主張を排除した作品。
もちろん、主張がないわけではないのだけれど、「ですよね?」「でしょう?」など、なにも確認してこないんですよね。
鑑賞者に、負荷をあたえないというか。つきつめると、むしろ軽やかになる?
監督の脳内で制作された劇映画のような、妙なあたたかみのある作品。
肖像権にぎりぎりまで配慮した点も印象に残った。
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この映画を完成させることは相当にむずかしかったと思う(具志堅さんを撮るという意味において&撮影・制作の過程で起こった遺骨土砂問題、ハンストなどのできごとにおいて)。
けれども、こうして完成させたことがすごい。
奥間監督の、今後制作されるであろう(←勝手な想像です)劇映画作品にも期待したい。
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『骨を掘る男』の上映は、まだまだ継続しています。
スケジュールは下記から。
気楽に観にいってくださいね。
ゆたしくうにげーさびら(よろしくお願いします)。