筆者は、2023年10月7日のイスラエルによる攻撃を知るまでは、パレスチナ事情をほぼ100%に近く知らなかった。
10月7日以降、パレスチナについてSNSで発信している人は、筆者が目にする範囲内でふたりほど。
それについても、ただ「嘆き」のことばや「パレスチナへの攻撃をやめろ」と書かれている文字列を目にしただけで、興味を持つまでには至らなかった。
続きを読む『みっちんの声』石牟礼 道子・池澤 夏樹(河出書房新社)
2008~2017年の期間、作家 石牟礼道子(みっちん)のもとに池澤夏樹が訪れ、日々の食べ物やこどものころの暮らし、水俣、天草、沖縄、また石牟礼作品について語りあう、さりげないながらもおどろきをもたらす対話集。
対談というほど儀礼的ではなく、ファン(池澤夏樹)が推しの作家(石牟礼道子)のもとに通いつつ、お茶を飲みながら、またふかした芋を食べながら、体調を気遣いつつ創作のひみつに触れていく。
作家生活40数年の池澤夏樹氏であっても、石牟礼道子の作品の前では自信をなくしてしまうというのが興味深く。(石牟礼道子の作品を読んで、自信をうしなわずにいられる作家などいるのだろうか?)思わず、「わっかる~」とつぶやく筆者。
『苦界浄土ーわが水俣病』は、読む者の生命線を持っていかれるほどの迫力があるし、たとえば『椿の海の記』、その語彙と場面、登場人物(+生き物)たちの働き、草と花、木、土、海、風、人間の足音と声と想いと。時代と空間を超えた創作に、うならずにはいられない。
石牟礼道子は、こどものころから、ワイルドサイド(=はずれた世界とでもいうか)にいた人なのだなあと思う。
それはともかく、この本は、作家同士の対話なのに、気取らなさがただよっていてやわらかい。春の畑のような対話集だ。
映画『骨を掘る男』奥間 勝也監督作品がこのたび完成し、2024年6月より全国で公開されるようです。
40年以上にわたり沖縄戦の戦没者の遺骨を収集し続けてきた具志堅隆松。これまで400柱以上を探し出した。彼は自らをガマフヤー(洞窟を掘る人)と呼ぶ。砕けて散乱した小さな骨、茶碗のひとかけら、手榴弾の破片、火炎放射の跡…。捨い集めた断片から、兵隊か民間人か、どのような最期をとげたか推察し、想いを馳せ、弔う。掘ってみるまで、そこに本当に骨が埋まっているかどうかはわからないーーそれでも掘りつづける行為を彼は「行動的慰霊」と言う。
※具志堅隆松(ぐしけんたかまつ)
監督の奥間勝也は、具志堅の遺骨収集に同行し、沖縄戦で亡くなった大叔母の生きた痕跡を探しながら、一方で繰り返しこう自問する。「出会ったことのない人の死を悼むことはできるのか?」その問いはやがて「平和の礎」に刻銘された24万の名を読み上げるいくつもの〈声〉と共鳴し、戦火と分断の時代を生きる私たちを震わせる。
『骨を掘る男』は、沖縄、沖縄戦、戦没者の遺骨、慰霊、弔いがテーマであるだけではなく、非常に美しい映像を撮る監督の作品であることにも注目です。
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太陽花學運(ひまわり学生運動)の記事を書きたいと考えていたけれど、一文字も書いていない。
パレスチナ、能登半島地震、外国人の在留許可取り消し法案、群馬の森朝鮮人追悼碑撤去、南西諸島の軍備強化。
加えて、アメリカ空軍の兵士アーロン・ブッシュネル(Aaron Bushnell)さんの抗議の焼身自殺……。(2024.2.25、彼は「フリーパレスタイン!」と何度も叫びながら死んだ)
人が殺されていく、人が助けられないでいる状況が、こんなにも自分自身に影響をあたえる(自分自身も破壊されていく感覚)のかと。
筆者自身、外国人の在留許可取り消し法案にはかかわりがあり、自分が立てる場所を周辺から削られていく感覚がリアルにあることも影響している。
(まあ、いくらか強い人でも、このような状況=毎日人が殺され続け、それが一部の支配者と支持者に肯定されており止める気はないばかりか、もっとやってやると発言。また止めたいと切望する人が世界に数えきれない ほど存在していても止めることができない、では打ちのめされますよ)
続きを読む「剛才在追隊伍的時候 偶到一個86歳的阿姨
看到她一歩一歩慢慢走著 好像又明白了什麼」
(デモの隊列を追いかけていたとき、86歳のおばあさんに出合った。
一歩一歩ゆっくり歩く彼女を見て、私は何かを理解したような気がした)
※DeepL翻訳+筆者訳
自分の居どころや近況を知らせることが苦手なので(「次はどこに行くの?」と関係の遠い人に聞かれるだけで「苦手な質問来たな」と思う)、なにも書かない期間が続いています。(ほかの分野でやりたいことがあり、おそらくこの状態は続きます)
続きを読む横須賀に住んでいた時のこと。新聞勧誘の人が来てしつこいので面倒くさいと思い、追い払おうとした。そしたら私の拙い日本語に気づいたのか、彼は「失礼ですが、どこの国の方ですか?」と聞いてきた。「は?韓国ですが、何か?」と言い返したら、なぜかほっとした顔になった彼の返事「僕は沖縄です」。 pic.twitter.com/17ljipsMui
— 崔盛旭 (@JinpaTb313) 2022年3月30日
この崔さんの投稿を読むたびに(当該ツイート、ブックマークしている)、幻燈のようにぼんやりおもいだすできごとがある。
10年×2単位ぐらい過去のことだ。
日払いバイトの現場で、沖縄大東島出身の方に会った。
なにを話したのかは、もうわすれてしまったが。
「おじさんはね、もう、沖縄に帰ることにしたんだよ……」。
これだけは、今もわすれないでいる。
「もう」という単語に、どのような意味があったのか。
今、その単語を自分勝手に装飾することはやめておきたい。
【追記】崔さんの投稿。スマホですと画像が表示されないようです。「 pic.twitter.com/17ljipsMui」の箇所をクリックしてみてください。