あまはじノート

amahaji note

【絵本】『ヨーンの道』下嶋 哲朗(理論社・1980年発行)

長野県出身の下嶋 哲朗(しもじま てつろう)さんは、1975年からの1年間、家族で石垣島の川平(かびら)に滞在。この絵本は、その時の聞き書きをもとに制作したもの。

※出版社にもすでに在庫がないようなので、 『 古書カフェ うさぎ堂』さんを紹介しておく。こちらは、沖縄、八重山に関する本はもちろん、店主が選びぬいたさまざまな本が並ぶブックカフェ。ホットサンドやコーヒーを味わいながら、席に座って本が読めます。筆者が訪れたときは、飲み物のカップミッフィーの絵柄だった! 『 古書カフェ うさぎ堂』、推します。※現在も『ヨーンの道』の在庫があるかどうかは、不明です。

www.facebook.com※『ヨーンの道』は、図書館・古書店で見つけられるはずです。


作者の下嶋さんは、沖縄島読谷村(よみたんそん)の集団自決について最初に掘り起こした人。ご本人は、自分が第一人者だと大きな声で発言されることはないようだ。けれども、下嶋さんがいなければ集団自決の事実は世に出ていなかったかもしれない。

集団自決=第二次世界大戦当時、住民同士、家族同士が殺しあって死んだできごと。3世代にわたる皇民化教育と、「アメリカの捕虜になるくらいなら死を選べ」と日本軍が指示したことが原因。集団自決では、親が子を、子が親を死なせた例もある。
集団自決は、沖縄、サイパン、グアム、テニアン、フィリピン、樺太(からふと)、満州で起こったという。ちなみに、沖縄では集団自決について語ることは長い間タブーとされていた。”集団自決”という呼び方が適切かどうか、現在も議論されている。


筆者は今、下嶋さんの『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』(岩波書店)という本を読み進めている。

中に、石垣島滞在時、「沖縄戦のとき、私の村では、集団自決がありました」という話を聞いたというくだりが登場する。そのかたは、読谷村からの移住者だった。そのつぶやきを聞いた下嶋さんは、8年後の1983年に読谷村で調査を開始。


このとき、下嶋さんが石垣島に滞在していなければ、そして米原の年配者から話を聞いていなければ、タブー視されていた読谷の集団自決の調査はおこなわれなかった可能性がある。

(筆者が過去にチビチリガマを訪れたとき、案内いただいた知花昌一さんから「しもじまさんという絵描きの人が調査をはじめた」ことをうかがった)

下嶋さんの経歴を拝見すると、もともとは子ども向けの作品を制作しておられたようだが、ある時期を境にチビチリガマ(集団自決があった壕)・集団自決・沖縄戦についての著書が増えていく。創作者から記録する者への選択をされたのかと思う。


さて、絵本。
”ヨーン”の響きがなんとも印象深い。動物の鳴き声のようでもあり、誰かが誰かを呼ぶ声のようでもあり、その声がすいこまれていく闇のようでもある。

ヨーンは、石垣島のことばで「夜」の意味を持つ、川平から石垣島の中心地に通じる道の呼び名である。今でこそ道路が通っているが、戦後まもなくまでは、植物が生い茂るジャングルのような暗くて細い道だった。

この物語の主人公は、生きるため食べるため、町へと続くヨーンの道を走る。町で米を売るためはだしで走る。
やがて家族を得るが、夫は戦争に招集。肺炎を得て島に戻るも、悪化してしまう。主人公は、夫の薬と養生になる食料を得るため、子どもたちに食べさせるため、さらにヨーンの道を走り続けなければならなかった。

「(死んだら ※筆者注)白い着物を着せて、火葬にしてくれ。焼いたら、おれのからだから、鉄砲のたまが、いっぱい落ちるはずだ。それを子どもたちに、やってくれ。形見だよ」(後略)


『ヨーンの道』p.40より

主人公と子どもたちの手のひらに残った鉄砲の玉……。

『ヨーンの道』で描かれるのは、離島生活の苦しさ(離島苦=島ちゃび)そのものだ。食事は、半年かけて育てたちびたサツマイモ。いよいよ食べるものがなくなると、ソテツの毒をぬいて食料にする。激しいひもじさから毒が残るソテツを口にしてしまい、命を落とす家族もあったという(=ソテツ地獄)。

島の人の骨格や肉付き、肌の色。鈍く光る眼光と使われ続けた手のひら・足の裏。濃い空と植物、南島の生活の重さと憂鬱を、下嶋さんは、野太く力強い筆使いで描いている。