あまはじノート

amahaji note

下嶋哲朗(てつろう)さんの本・その1『生き残る 沖縄・チビチリガマの戦争』~『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』

『生き残る   沖縄・チビチリガマの戦争』下嶋哲朗(晶文社)は、1991年発行

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『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』下嶋哲朗(岩波書店)は、2012年の発行である。
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どちらも、(沖縄戦時、および太平洋戦争時に起きた)集団自決をテーマにした本。すでに新刊では手に入らない。

※以下の文章は、後ほど加筆修正する場合があります。

『生き残る 沖縄・チビチリガマの戦争』

下嶋さんは、1973年に滞在した石垣島米原(よねはら、読谷村からの移住者がいた集落)で、沖縄戦当時、読谷村(よみたんそん・沖縄島)で集団自決があったことを知る。

これは素通りしていはいけないと感じた下嶋さんは、チビチリガマの調査を決意。(当時の下嶋さんは絵本作家で、作品作りのために石垣島に滞在していた)


その後、読谷村に通うこと7年。「チビチリガマを知りませんか?」とたずねても、村人からの明確な返事はなく。草と木が生い茂る密林を、かきわけても、かきわけても、チビチリガマは姿を見せなかった。それどころか、7年が経過してもその場所すらわからなかったという。

いよいよ、家族で読谷村に移住。朝から夜まで村中を歩き回り、チビチリガマを探す日々が続く。それでも、公転周期の長い惑星がひっそりと地球から離れていくかのように、チビチリガマは遠く離れていった。

ついには、チビチリガマでのできごと(集団自決)が、架空の物語かのようにも思え、「もういいんじゃないか、自分はやるだけやった」とあきらめかけたそのとき、草むらである人物に出合う。

それが、この本の主要登場人物である天久 昭源(あめく しょうげん)さんだった。「あなたは、チビチリガマを知っていますよね?」と問うも、「なんでか!?」と言わんばかりの強さで拒否。

けれども後日、下嶋さんのもとに、白い小さな紙が届けられる。そこには、チビチリガマの集団自決で亡くなった昭源さんの家族6人の名前が書かれていたのだ。

渡慶次トラ 七三歳
天久 ツル 三四歳
   シズヱ 九歳
   光子  七歳
   ユキ  五歳
   アキ  三歳

『生き残る 沖縄・チビチリガマの戦争』p.27より

※渡慶次=とけじ、天久=あめく、シズヱ=しずえ
※昭源さんは、父親も沖縄南部戦線で亡くしている。家族7人を、沖縄戦で失ったのだ。

チビチリガマが、その姿を見せてくれた瞬間だった。その後、1983年夏、日本の敗戦(1945年)から38年目。長らくタブー視され封印されていたチビチリガマの現地調査が始まる。

『生き残る 沖縄・チビチリガマの戦争』は、1931年生まれの天久昭源さんの成長過程と戦中、戦後(どのように軍国少年となったのか。戦後の昭源さんの暮らしはどのようなものだったか)、読谷村チビチリガマ、シクムガマに関する生存者の証言を紹介しながら、”日本”の臣民として教育された沖縄の人たち、読谷村の集団自決、集団自決で家族を亡くした人たちの戦後を伝えている。

かつて、大田 昌秀氏(沖縄の政治家・社会学者)は、「沖縄の皇民化教育は、試験管の中で培養されるような純粋なものだった」と言った。

当時の日本の教育は、皇民化教育に徹していた。その中で、特に沖縄の場合は、外から運ばれる本がおもな情報源だった。その本にしても、本州から船で運ばれる時点で、皇民化教育を強化させるものだけが選ばれていたと。ひとつの教えを信じる以外の道がまったくなかったのだ。

それが、どのようなことなのか、今も理解はできない。けれども、その試験管の中での純粋培養が多くの人を死なせたことだけは確かだと思う。

だれが、どのような嘘をついて、教育をおこない、だれを、どのように、死なせたのか。敗戦しても、あいまいなまま隠され、忘れようとさせて(して)きたのか。

その成り立ちと経過を、事実の数々を、責任を、生きている者は知ることだ。市民の生命(せいめい)が、どれほどの軽さだったか(=最初から例外なく、”捨てられていた”)を、生きている者は知ることだ。

 

沖縄戦で刻まれた傷が、年月の中で深く大きくなるだけだったという昭源さんの戦後。その冷たい傷の治癒などありえないと思われたが、三線を手にすることにより、少しずつ、少しずつ、体温を取り戻していったという。その過程の重みと痛みに、筆者は、うなだれるしかなかった。

この本には、チビチリガマの集団自決で亡くなった82名全員の名前が記されている。


『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』
全438ページ。日本全国に住まわれている体験者の証言と、チビチリガマから始まった集団自決の調査、考察の、著者最後の大仕事(下嶋さんの言葉)とされる本。「集団自決」の呼び名についての考察もある。


集団自決をいうとき、それは沖縄でのできごとだとされている。集団自決があったのは、渡嘉敷(とかしき)島と座間味(ざまみ)島、慶留間(げるま)島、読谷村、沖縄島南部……。筆者も、そう思っていた。

けれども集団自決は、サイパンでも起こり、グァム、テニアン島でも起こり、フィリピン、満州でも繰り返されていたのだ。

沖縄で起きたように、アメリカ軍に追い詰められ、崖から飛び降りて自決を選んだ人もいる。沖縄島からサイパンに移住し、子どものころに沖縄戦を体験した(現在は沖縄島在住)、横田チヨ子さんの証言。

人はスーッとまっすぐには落ちていかないんですよ。ひらり、ひらり、蝶が舞うように身をくねらせて落ちていく。

『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』p.111より

筆者は、『写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄~』という以前放送された番組で、サイパンの崖から飛び降りる人の映像を観たことがある。崖から飛ぼうとしている人が、ブルブルふるえる映像を観て、その恐怖の大きさを思った。(同時に、この映像は”だれ”が撮ったのかとも)

(ネット検索すれば観られるかも。※自分の意志で視聴ください。横田チヨ子さんのインタビューもあります)


当時の皇民化教育が、どれほど強力な洗脳性を持っていたのかを思う。日帝(日本帝国)の指導者たちの教えは、美しい言葉を都合よく使い、犠牲を讃え、ニセモノの喜びを植えつけ、支配下にある民を殺戮するだけのものだった。うそと脅しで構成された(死の)教え。

沖縄は『だれのため』に、”捨て石”にされたのか? 指導者たちとその近親者であることはまちがいなく。そして、日本列島に住んでいた人たちのため、だ。

沖縄戦が、ヒロシマナガサキが防いだ地上戦と死があったということだ。

(オリンピック作戦)作戦日Xデーは一九四五年一一月(筆者註:11月のこと)一日。
 九州南部宮崎、大隈半島薩摩半島に上陸。これは関東上陸作戦(<コロネット作戦>、後出)の飛行場確保が目的。


『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』序文より

<コロネット作戦>上陸日Yデーは一九四六年三月一日。
 この三カ月前からオリンピック作戦で確保した九州南部の航空基地を利用、関東地方の艦砲射撃と空襲(ミサイル、ジェット戦闘機、化学兵器の使用も含む)。九十九里海岸から二四万人、湘南海岸から三〇万人、予備兵力合わせて一〇七万人が上陸。相模川沿いを中心に北進し、現相模原市、町田市域辺りより進路を東京都区部へ。一九〇〇機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ最大規模の兵力を投入。上陸した連合軍は約一〇日(筆者註:10日のこと)で東京を包囲。


『非業の生者たち 集団自決 サイパンから満州へ』序文より

沖縄戦(1945年)当時、日本列島に住んでいた人またその子孫は、沖縄戦を知ることだ。沖縄戦を知れば、”リゾート沖縄(または、アメリカ軍基地アイランド、自衛隊駐屯地アイランド)”に遊び(レジャー)でなど行けなくなるかもしれない。

沖縄戦を知れば、6月23日慰霊の日を日常生活のままやり過ごすことはできないだろう。けれど、それでも、知ることだ。