ー心の病んでいるものが、他人に危害を加えたり、犯罪をおかすというのは、あんたたちの偏見じゃよ。沖縄の島々ではな、心の病人はみんなで大事にした。(後略)
「太陽の子」灰谷健次郎著より(以下同)
舞台は、沖縄戦から30年後の1975年ごろ。登場するのは、11歳の主人公・ふうちゃんを中心とした家族とその周辺の人たち。ふうちゃんの家は、工場が立ち並ぶ神戸の下町で、「てだのふあ・おきなわ亭」という沖縄料理屋を営んでいる。
ふうちゃんのお父さんは、沖縄波照間(はてるま)島生まれ。波照間でマラリア禍を経験後、沖縄島に移住、15歳で沖縄戦を体験する。お母さんは、那覇市首里の出身だ。
※てだのふあ:てだ(=太陽。てぃだ、てぃーだの表記もあり)、ふあ(=子ども、実際は”ふぁ”の発音になる)
※マラリア禍:1945年の沖縄戦当時、波照間島では地上戦はなかった。けれども、マラリアの「有病地」である西表島への移住をだまされるかたちで日本軍に強制される。従うしかなかった住民たちは、西表島に移住後1,587人がマラリアに感染、477人が死亡する。当時の波照間島の全住民の数は1,590人。3人をのぞいてマラリアに感染したことになる。
物語は、お父さんが精神科(本の中では「神経科」と表記)の診療を受けに行く場面から始まる。ふうちゃんのお父さんは、半年ほど前からことばが少なくなり睡眠も不安定になった。急性的な症状が進み、温かいはずの家族との暮しがゆらぎの中に放りこまれていく……。
やがてふうちゃんは、お父さんの病気が沖縄戦に関係していることに気づく。
沖縄の戦争は、三十年前に終わっているのである。そのことが、てだのふあ・おきなわ亭の人びとをやりきれいな思いにさせた。
戦争は終わっているのだろうか。
なぜ、わたしたちの中だけ、戦争は永遠につづくのか。
406ページの中に詰め込まれた沖縄と沖縄戦。ラフティー、ジューシー、紅型の着物、パナリ焼、アダンの風車、集団就職、沖縄への蔑視感情、マラリア禍、人頭税、集団自決死、艦砲射撃、沖縄戦の写真、アメリカ兵からの性加害による妊娠、手榴弾でふっとんだ片腕……。
「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ。おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだ……わしたちを守りにきた兵隊がいったんだ。(後略)」
痛みをかかえた人たちが、ぎりぎりの思いやりを与えあいながら生きている。「ふっ」とかすかな息を吹きかるとこぼれ落ちてしまいそうな均衡の上でなりたつ日々。
読んでいると、作者に向かって「もうこれ以上はいい(いらない)んだけど!」と叫びたくなる。
かぎりないやさしさを持ちながらも、そのやさしさゆえに苦しまなければいけなかった沖縄の人たち。自分が傷ついたとしても、けして相手を犠牲にしようとしない人たちの心情の深さ。小説「太陽の子」の中に広がるのはそんな世界だ。
ーおとうさんの眼、きれいナ(←小文字の”ナ”)
ーこの島の空と海は、地球の目ン玉や。そやからおとうさんの眼もきれいなんやろ。ふうちゃんの眼もきれいぞ。
灰谷健次郎(はいたにけんじろう):児童文学作家。小学校教師の仕事のかたわら児童詩誌にかかわり、子どもたちの詩を世に多数紹介。17年間に及ぶ教師生活を終えたあと、沖縄とアジア各地を旅する。このとき、石垣島のパイン工場でも働く。1991年に、沖縄渡嘉敷(とかしき)島に移住。以後、2006年に亡くなるまで暮らす。
メモ:1978年に初版が発行された「太陽の子」。冒頭写真の理論社版(那覇市立図書館収蔵のもの)では、「1991年7月39刷発行」となっているのでかなり多くの人に読まれたと思われる。
筆者は10年以上の間隔をおいて再読したのだが、あらためて沖縄戦の当事者には生ぬるい希望などなかったのだと思ったしことばにならない感情を味わった。
筆者には、お父さんが背中だけしか見えない人に思えた。お父さんの体のうち現実の世界にあるのは背中だけ。もうすでに、体のほとんどがこの世界にないのだなこの世界にいるのがつらいのだなと思えた。
トーベ・ヤンソン作「ムーミン」の物語の中で、近親者からおどされるうちに姿が見えなくなってしまった少女ニンニが登場する。そのニンニのように、つらすぎて実像が消えてしまったのではないかな。ニンニは、ムーミン一家のやさしさにより自分の姿を取り戻すのだけれど、お父さんは……。
ラスト近くで起こるできごと。筆者は、救済として書かれていると感じたのだけれど、どうなのだろう? 戦争トラウマという概念がなく、精神医療も十分ではなかった時代。沖縄戦を体験した中でおきざりにされた苦しみがたくさんあったことを思う。
やさしすぎてひりひりする物語。「以前に読んだよ」という方も、今の自分の視点で読んでみることをすすめます。
メモ:物語の中に、現代では問題になるであろう容姿を揶揄するアウトな表現がございます。揶揄というよりは、発言者の楽しみとして容姿をいじるような表現。当時は、このようなことをバカ話として楽しんでいたのかと思われます。時代背景など言い訳にはなりません。やはりアウトです。