自分の居どころや近況を知らせることが苦手なので(「次はどこに行くの?」と関係の遠い人に聞かれるだけで「苦手な質問来たな」と思う)、なにも書かない期間が続いています。(ほかの分野でやりたいことがあり、おそらくこの状態は続きます)
ここしばらく日本語圏外にいて、本をあまり読んでいません。映画も観ていません。
その中で、宿の本棚におかれていた新版「生きづらい日本人」を捨てる 下川裕治 | 知恵の森文庫・未来ライブラリー | 光文社は、その宿に滞在するあいだ、身近において何度も読みかえしました。
詐欺にあってまでも東南アジアにいつくことを選んだ人たち、一時期たくさん存在した「外こもり(日本で集中して資金をためその資金で一定期間アジアで暮らす)」の人たち。
タイ チェンマイでホームレスになり、古本屋で万引きを繰り返して逮捕されるも、なんと強制送還されるわけでも罪に問われるわけでもなく、そのまま解放されてしまった人の日記。
万引きを繰り返しながらも、チェンマイの由緒ただしき寺院で僧侶に日本語を教えていたというのが、なやましくも「これもありなのか! タイ」と感心。
(amazonでこの本の感想を読むと、希望がない、寒々しいと書かれていたのですが、「どこが?」「そんなに希望だけを見ていたいわけ?」と)
「アウトサイダーからの手紙」犬養道子(中公文庫)には、注目したい箇所がありました。
犬養さんが一時期滞在したスイスの老人ホーム。そこに暮らすことを決めている老人たちの、人のうわさを話題として選択しない、愚痴をいわないという態度(自分が好きじゃないメニューが出てもそれをことばにしないといった)。
歩道は激しい段差だらけ、街は落ちついた様相ながら騒々しく、エアコンは2006年製だし、シャワーのお湯は控えめにみても色がついていて(=白いタオルがうすい泥の色に染まった)不快なことは同時にあって。
それでも。
目にはいるものすべてが好ましく、露骨で強烈なものが視界になく。
前から歩いてくる人がぶつかってくる心配もなければ、顔をじっとみられることもない。
なんなら、やさしく道をゆずってくれるし。
ぐうぜん、目があったのならほほえんでくれる。
誰かに注意されることもなければ、街中の注意書きすらもすくない。
地元の人たちは押しがつよくなく、こちらが間違っていても指摘しない。
それでも。
差別らしきことはあり(そのときはあとでひとり泣く)。
そこが光るように自分の中に残り。
どちらにしても。
ネット上の広告とおススメが自分の理解できない言語で表示、人間と社会がイジワルじゃないていうのは楽でいいです。