あまはじノート

amahaji note

書籍『愛蔵と泡盛酒場「山原船」物語』下川裕治著(双葉社)

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この本の主人公 新里愛蔵(しんざと あいぞう)さんは、かつて東京の中野で「山原船(やんばるせん)」という飲み屋をやっていた。著者の下川裕治さんは、アジアのバッグパッカー旅の本を数多く書いてきた作家で、沖縄とのかかわりが深い。愛蔵さんと下川さんは、タイ チェンマイで出合ったという。

 

物語は、愛蔵さんと下川さんの人生、関東の食堂や飲み屋に「沖縄人お断り」の張り紙が張られ、「(沖縄の人なのに)日本語がうまいですね」といった沖縄差別が存在したころから沖縄ブームが起こるまで。日本の社会が沖縄に向ける目線をわがままに変えてきたことまでも描写する。

愛蔵さんは、太平洋戦争がおわる6年前、沖縄屋我地島(やがじしま)に生まれる。つまり、沖縄戦当時6歳だったということになる。

10代のおわりに生死にかかわるような病気を体験。その後、バイク事故が原因で脊椎カリエスを患う。東京に出てきたのは、その脊椎カリエスの治療を受けるため。

上京後は、タクシー運転手を生業にするかたわら、沖縄出身者が集まる場に通い三線を弾き続ける。やがて「山原船」を東京中野駅近くに開店。

書籍にも登場するが、「山原船」は、カウンター数席の小さな飲み屋だ。あるとき筆者がカウンターに座っていると(一度だけ行く機会があった)、「泡盛3」と書かれたメモが店の外から手渡されてきた。

店に入りきれない客が外で立ち飲みしており、「泡盛 3」は、追加注文の「泡盛 3杯」を意味する。「注文がメモって、どういう店!? 」と思った。「山原船」は、どこかほどけた飲み屋だった。

 

そんな「山原船」で愛蔵さんが唄う「とぅばらーま(八重山諸島の民謡)」を聴いたのもずいぶん前のことになる。愛蔵さんも旅好きで、店をだれかにまかせては旅に出て、旅先の路上で三線を弾くのが楽しいと話されていた。

愛蔵さんはやがて「山原船」を閉め、タイ チェンマイに移住。絵を描きながら、ウィークエンドマーケットで三線を弾くようになる。物語は、チェンマイで愛蔵さんが倒れ、これからの生活をどうするのかというところで終わる。

チェンマイにいたシーサーに似た存在(たぶん沖縄のシーサーと同じ役目)

筆者がタイのチェンマイに滞在するようになったのは、この書籍の影響だ。「チェンマイは昔の沖縄に似ている」という愛蔵さんのことばに惹かれたのだと思う。

樹齢の長い木が切られもせずに、街のあちらこちらに残る。視界に植物の緑が入らない場所はなく、まるで木々と植物の中に埋もれるように街が存在する。急ぎ足の人はおらず(バイクと車は飛ばしているが)、生活の進み方に”早足で歩く”という概念はないようにみえる。


とはいえ、筆者はアジアに「ゆったり」や「ほほえみ」を求めてはいない。ただ、人間が存在することに多くの条件がつけられていないところに惹かれるのだ。


書籍の後半。愛蔵さんの生活の糧を心配した下川さんが、愛蔵さんの年金手続きに奔走する描写がある。日本の年金制度がはじまったとき、沖縄はアメリカの統治下にあった。統治下では日本の年金制度が適用されなかったため、この期間の沖縄の人たちの年金支払い記録は空白になる。


「沖縄特例」は、この空白を埋めるためのもの。アメリカの統治時代に沖縄に居住していたことが証明できれば、その期間は年金をおさめたものとして記録されるのだ。愛蔵さんの場合も、証明さえできれば年金が受け取れるかもしれないとう状況だった。しかしどうしても、過去の住民票がさがしだせないというところで物語は終わる。

愛蔵さんの人生は、沖縄の近代の歩みと重なる。貧しくて、ひもじくて、やりきれなくて。『愛蔵と泡盛酒場「山原船」物語』は、くやしさの物語でもあるのだ。沖縄差別の中を必死に生きてきた愛蔵さんと沖縄の人たちに、最大限の敬意をささげたいと思う。


※その後、下川さんが書かれた別の文章によると、愛蔵さんは年金が受け取れるようになったとのこと。