あまはじノート

amahaji note

映画『せかいのおきく』阪本順治監督作品@桜坂劇場

『せかいのおきく』阪本順治監督作品。沖縄の桜坂劇場で、6月23日慰霊の日前後に2回鑑賞しました。

sekainookiku.jp



鑑賞当日、桜坂劇場に行くまで、「阪本順治の作品なのに、なぜ『せかいの”きおく”』なのだろう?」と思っており、ポスターを見て「えっ、”おきく”だったのか!?」と気がつきました。

チケットを買う場面でどっちだったかわからなくなり、「せかいの……?」と筆者がつぶやくと、桜坂劇場窓口の人が「おきく?」と返してくれて。この返答が、どんなに助かったかわかるでしょうか。


舞台は江戸の長屋。炊事・洗濯用の井戸もトイレも、長屋の住人たちで共有が基本。中でもトイレは、大雨が降るたびに内容ブツが押し上げられ、周辺にあふれてしまいます。あふれるとトイレをがまんしなければなりません。その上強烈に臭い。


そこへあらわれるのが、矢亮(=やすけ。池松壮亮)。彼は、人間の糞尿を売り買いしてしのいでいます。両てんびんに桶をかつぎ、長屋や武家屋敷の糞尿を買い集めます。舟で遠方に運び、必要とする農家などに売って利益を得るという職業です。身分としてはおそらく下位にいると思われます。

紙くず屋の中次(=ちゅうじ。寛一郎)は、やがて矢亮の糞尿の弟子となります。我慢強くて寡黙。ただし、こっそりと隠した笑いのセンスを持ちます。

 

おきく(黒木華)は、もとは武家の娘でしたが、今は父親と長屋でふたり暮し。寺子屋で、書道の先生をしています。この三人が、この映画の主要登場人物です。


この作品は、紙くず一枚、糞尿の一滴までも循環させていた江戸の社会を表現した映画であるとされていますが、同時に、現代の生活ではかき消えてしまうような小さなこころの声や気持ちを、清廉に表現した映画だとも思いました。

大切なものは心の中にしまっておく。だれにも言わないし言えない。それは、かすかな声を出すこともないけれど、小さな野の花のように静かにそこにあり続ける。

物語の中ごろ。おきくは、大きなできごとに遭います。ここは本来なら、血がどくどくと流れる劇的な場面として描写されたでしょう。

けれども、多くの血は流れず、おきくの心臓が、生命が、精神が、そのできごとにより衝撃を受けていることを、それでも邂逅しようとしていることを、覚悟のうえで続く心臓の拍動のような音の高まりで表現します。このときおきくは、生きながらえて自分の大切なものを守ろうとしていたのだと思います。筆者がいちばん気にいった場面です。

この事件によりおきくは、自分自身の声と家族である父親を失います。声の消失と父親の不在と。回復と受け入れの期間は、ろうそくの燃え跡により表現されます。ろうそくがチリチリと燃えて少しずつ短くなっていく期間。

おきくを心配する長屋の人々が時間をおいてやってきて、引き戸の外から語りかけます。この場面が美しく、思わず映像を担当したのは、どなたなのか? と思いました。(笠松 則通さんという方でした)

そして、音。全編を通してとても静かです。江戸時代は、ここまで音が少なく雑音のない世界であったのか。効果として加えられた音も極限まで少なく、映画を鑑賞するあいだ気持ちよく静かな時間を持てます。

ほかに印象に残ったのが女性たちの着物姿です。着物の中に身体がきれいにおさまっている。当時の時代と生活を充分に理解した人か、着付けをされたのだと思います。

また、美術も。生活の道具は画面の中で目立って目を引くことはないけれども、足りないものはなくまた余分なものもなく、美しく配置されていたのが印象に残りました。

物語の中でおきくが書く文字。文字が、おきくそのものの姿であることにおどろきます。そのおきくそのものである文字は、声を失ったおきくの声となって”せかい”に放たれていくのです。

黒木華の第一声、石橋蓮司やお坊様役を演じた眞木蔵人(くろうど)の演技、池松壮亮も。よかったですねえ。寛一郎さんは、とどまる演技ができる俳優さんだと思いました。

このように、配役と制作担当を創作し一作の映画を完成させる能力。これが、阪本順治監督の才能なのかもしれません。


清廉でありながら、糞尿がたびたび画面に登場する『せかいのおきく』。(注・モノクロです)少なくともあと一回、劇場で観たかったです。

 

【メモ】

ここで書いてしまいますが、中高年男性(と書くのが適切なのかどうか? ほかに書きようが?)の映画監督の作品を紹介することに迷いがあります。


映画監督の性加害・性暴力やパワーハラスメント、加えて、映画の制作過程での俳優や制作スタッフに負荷がかかる就業形態、不透明な報酬といった問題が映画制作現場にあると知るようになったからです(特にある中高年男性監督においての性加害・性暴力は、受けた側の俳優さんが極端な選択を選ぶ事態にまでなっています)。
そのようなことを知ると、この監督は、この作品はどうなのか? といやでも考えてしまうわけですね。