あまはじノート

amahaji note

2023/06/23 沖縄 慰霊の日

折り鶴のカラフルな色が場を明るくする

2023/06/23 沖縄 慰霊の日に、沖縄県平和祈念公園に行った。


今年は、遺骨収集ボランティア ガマフヤー具志堅隆松(ぐしけんたかまつ)さんの平和祈念公園でのハンストはなかった。事前に予定はされていたが、場所の利用許可が出なかったとのこと。(「平和の火」の前で集会のみ行われた)

 

去年までのハンスト現場は、具志堅さんを支持する人や報道の人たちがただずむ場所としても機能していた。筆者自身も荷物をおかせてもらい、ときどき立ち寄り休憩したものだった。

人があつまり会話をかわす場がひとつなくなること。それは、気持ちやことばを溜める場所がなくなることであり、想い(=力)が分散することでもあったように思う。(来年は許可されるといい)

筆者自身、ハンストのテントがないことも関係したのか、自分の居場所が決められなかった。また、カメラを持っていてもなにを撮ればいいのかわからなかった。(これは、遠方から飛行機を乗り継いで沖縄入りした疲労の影響もある)。

それでも、「平和の礎(いしじ)」あたりを歩いた。見てきたことを少し紹介する。

ビスコのお供え(平和の礎にて)

戦没者24万2046人の名前が刻まれている平和の礎。

その家族や親族が、花と線香、飲み物(お茶、水、泡盛など)、お菓子や弁当、くだものを供えて名前の前で声をかけたり手を合わせたりしている。ペットボトルや缶入りの飲み物は、ふたが開けられているのがポイントで、これはもちろんすぐに飲めるように。

ある場所には、20個前後のプラスチックコップが置かれていた。お茶らしき色の飲み物が5つ、ほかは透明だったので水か泡盛か。この家族は(あるいは親族は)、このカップの数だけの人を戦争で亡くしたということなのだろう。5つのコップは、5人の子どものために用意されたのかもしれない。

別の場所では、5人分の紙皿におやつがいっぱいに盛られていた。「好きなだけいっぱい食べられるよ」とでも言いたげだった。

ペットボトルの水を礎の上からかけている人もいた。「たっぷり水を飲んで浴びてほしい」水すら満足に飲めなかった、からだを洗うこともできなかったであろう人たちに、きれいな水を用意したのだ。

「ミサイル配備、反対するか、賛成するか?」のシール投票

「NO BASE(基地いらない)ぬちどぅ宝(命ぞ宝)」と描かれた傘

アメリカ軍が慰霊に来ていた(平和の礎は国籍を問わず戦没者の名前を刻印している。そのためアメリカ兵たちの名前もある)

アメリカ軍に「×」を見せる人

※あとになり、「あのとき、あの”×”の人は、なぜ排除されなかったのか」と考えた。理由は、アメリカ軍が相手だったから。抗議は自由、なのである。これが日本の警察や自衛隊相手だったら 即排除だったんじゃないか。

印象が強かった人

※この左側に立つ人は、平和の礎の碑の前にずっと立っていた。耐えるように考えるようにしてずっと立っていた。


平和の礎を前にした風の通り道、大人になった孫(かどうかはわからないのだけれど、場面としてそんな感じ)が奏でる三線(サンシン)の音色を聞きながら、気持ちよさそうにほほ笑む年配者たち(沖縄戦を生き残った方たちだろうか?)の姿もあった。いい光景だった。



現場には、報道の人が無数にいて、慰霊に訪れた人を撮影したり取材したりしている。筆者は、報道でもジャーナリストでもないので、自分から声をかけることはない。

それでも。

「平和の火」の近くに、具志堅さんたちが進めている戦没者遺骨DNA鑑定の申請用紙がぽつんと置かれていた。そのそばにいると、(具志堅さん関係の人間と思われたのか)自分の家族の話をしてくださる方があらわれた。

沖縄戦当時、南部に逃げるしかなくなった母親(話してくださった方は戦後生まれ)の背中には赤ん坊が背負われていたが、砲撃の中を逃げまどう間に死んでいた。あとで探しにこれるよう目印をおいて埋めたが、探すことはできなかった。何度も探したけれど、結局見つかっていない。

自分は(平和祈念公園に)毎年来ているが、母親は、「とても行かれない」と今もここに来ることができない。

親戚のひとりは中国のどこかで亡くなった。遺骨はなく、日本軍から渡された骨箱には、石だけが入っていた。親戚は、その石をちいさな桐の箱におさめて仏壇に置いている、とも話してくださった。

※淡々と書いたが、涙を流しながら話してくださった。


ほかに、「(南部鉱山の土砂を辺野古の埋め立てに使うことに反対する)署名ならもうしたよ」という方があらわれ、これから具志堅さんの話を聞きにいく(「魂魄の塔」のあたりで平和集会が予定されていた)とのこと。


筆者は、魂魄の塔に行きたかったので、「あの~、もしよかったら~」とおねがいし、車に同乗させてもらえることになった。

「この上にはね、公園があって子供たちが遊べるようになっているんだけどね。今日は閉鎖されているね」

「わたしの〇〇〇という苗字はね、日本にも同じ発音の苗字があるけれど、漢字が違うんです。よく女性の名前に使われる〇〇の下の文字と一緒です」


「今年は警備がすごいね。多すぎるよ。あの”岸田”のためだね。さっき、写真を撮ろうとしたら制止されたよ。この警備のせいで、車だって遠い場所に止めないといけないんだよ。駐車しているところまで、けっこう歩くよ」

 

平和祈念公園の外の道路にも警備員がいっぱい。(というか機動隊? それにしては姿勢が……)

筆者、途中で警備の人に、「今日、警備の人は何人ぐらい来られているんですか?」と質問するも、「そのようなことには答えられません」と乾いた答えを返されてしまう。


「えっ? ざっと、五万人くらいですかね~? 多いっすよね!」ぐらいのことを言ってくれたなら、「お、なかなかやりますね~」ぐらいには思えたのにね。(※実際は、もちろん五万人もいません)

 

平和祈念公園から車で数分。
「魂魄の塔」がある米須(こめす)は、沖縄戦最後の激戦地だった場所。空と海と陸からのアメリカ軍の攻撃の中、どこにも逃げられず追い詰められてこの場所で死んだ人が多かった。

敗戦後、米須に住むようになった住民(旧真和志村=現那覇市の住民)が、放置されたままの遺骨3万5000柱を合祀したのが「魂魄の塔」なのである。(現在は、遺骨のほとんどは国立沖縄戦没者墓苑に移されている)

車に乗せてくださったのはうちなーんちゅの方で、お礼に「何か飲み物を」と言っても「おーっきな水筒持ってきてるから!」とことわられ、「それより、パン食べないかねえと思って」と、大きなあんパンをくださった。

結局、帰りもバス停まで送ってくださり、「これも、ご縁だからね。沖縄に来てくれるだけでうれしいから」と。こうしてむかえてもらっているのに、沖縄を訪れる人間(観光であれ、慰霊であれ、移住であれ)は、答えられているのかねと思う。

 

「いや、あきらかに答えられていないよな」、と慰霊の日の翌日、公設市場近くの手ごろな価格の飲み屋で「享楽」する人たちを見て思った。


(ある落ち着いた場所から来たばかりの筆者には、国際通りや公設市場近くの様子が、奇妙なつくりものの世界に思えた。移動してきたばかりで落差をはっきり感じたのかもしれない。「ある落ち着いた場所」にも、沖縄と同じようにかつては独立した王都があった)

 

沖縄のガイドブックは、「戦後、なにもなかったところから再生したのが、この沖縄島という場所です。沖縄島は、本来なら観光やレジャーで気軽に訪れてよいところではありません。なぜなら……」から、はじめないとね。

魂魄の塔の平和集会に参加していた方「ずっとぬちどぅ宝」

最後に。那覇から糸満にむかうバスの中。”フェンス”に囲まれた自衛隊駐屯地、建物の壁に「旭日旗(=戦争の旗)」があげられていたことを記録しておく。

「よく、ここで、この旗を、あげられるな」と思ったよね。

※上記の文章は、後ほど加筆修正する場合があります。