西表島が舞台
「緑の牢獄」は、台湾生まれの黄(こう)インイク監督による沖縄県八重山郡にある西表島を舞台にした映画だ。かつて西表島に存在した炭鉱の遺構やアーカイブ映像、その炭鉱との深いかかわり持つ台湾人女性の生涯をドキュメンタリーと再現劇を織り交ぜながら描く。
大正時代から西表島西部にある白浜集落周辺では炭鉱が栄えていた。体を横たえながら石炭を掘る「寝掘り」というスタイルで掘ることもあったという炭鉱労働は、牢獄にたとえられるほど苦労が多いものだったという。
台湾や日本、朝鮮からの出稼ぎ労働者が集められたが、労働者たちが炭鉱に到着した時点で、西表島までの旅費や食費、飲み食い代、宿泊代を借金として計上。労働賃金は、炭鉱の売店でのみ通用する炭鉱切符で支払われ、日々の食費は労働者自身が賃金からまかなった。
働かなければ食っていけない、石炭を掘らなければ借金を返せない。働いても働いても報酬が消えていく。1ヶ月で返せそうな借金が10年かかっても返せないシステム。「稼げる」と聞いてやってきたのに、その帳簿すら労働者に開示されないという暗闇。
楽しみは風呂と花札。労働のきつさをまぎらわすために与えられた中毒性のあるモルヒネ。そして伝染病マラリア。逃げきれない地理的条件。熱帯の植物に覆われた緑の牢獄に、労働者たちは囚われたのだ。
主人公は台湾人
その労働者たちを仲介する「斤先人(きんさきにん)」の立場にいたのが、この映画の主人公の橋間良子(台湾名:江氏緞・ヂャン・シュードァン)の養父楊添福(ヤン・ティェンフー)だ。当時の彼らを知る人のインタビュー(参照1)によると、「いい生活をしていた」と。ただし、養父自身は「稼げないね」と繰り返す。
橋間良子が養父に連れられて西表島にきたのは、1931年(昭和12年)10歳のとき。「(差別されるから)教室に一度も入ったことがないよ」という主人公は、以後、白浜集落で80年以上の年月を過ごすことになる。
ひとりで暮らす住まい
炭鉱のにぎわいが去ったあとも西表島にとどまった主人公の住まい。正式な補修がほどこされないままの壁は、ガムテープが切り貼りされ天井には大きな欠損がある。台風が直撃した日も、湿気が高まる春から秋の季節も、暖房がほしくなる冬の日も、雨が降り続く日々も、この部屋でひとり暮らしてきた。
日々の言語
主人公は、戦後(1945年)の一時期養父らと共に台湾に戻るが、二・二八事件(1947年)勃発直前にこっそり西表島に帰還する。このとき、日本と台湾を自由に行き来できた時代はすでに終わっており、密航に近いものだったという。
歴史の間をすり抜けた主人公は、現在の台湾で使われている國語(グォ・ユー。この言語が使われ始めたのは1945年に国民党が台湾統治を開始してから)が話せない。
生活言語は、子どものころから使い続けた台湾語と西表島で暮らすうちに身につけた日本語。黄監督によると、台湾人である主人公が話す台湾語はかなり古い時代のものだったという。炭鉱の終焉とともに多くの関係者が去った島。ただひとりの台湾人である主人公の台湾語は、アップデートされる機会がなかったのだろう。
ストレートでぶっきらぼう
地域の人や間借り人ルイスとの会話での主人公の言葉は、ときにストレートだ。「ない」「帰れ」「うるさい!」「奥さんがいるというから部屋を貸したのに」。タケノコを庭に置いた板の上でぶつ切りにする。部屋に入ってきた生き物をコンクリートの上にゴーン! と落とす動作もぶっきらぼうだ。
屹立する孤独
文盲だった主人公(台湾語は表記文字を持たない)が、日本語話者の中で台湾人として80年間の歳月を暮らす意味。カメラに撮られる自分を誇るわけでもなく、いい顔を見せるわけでもない。苦くて固い心の内だけが画面に流れ、ザラザラとした感情が伝わってくる。
黄監督によると、撮影当初はなかなか心を開いてくれなかったそうだ。なんなら、監督とスタッフに「お前ら、帰れ!」ぐらいは言ったかもしれないと想像させる。それほどに屈強なのだ。
なぜ、「おばぁ」と呼ばれたのか?
自分を「おばぁ」と呼ぶ主人公。だが、なぜ「おばぁ」だったのか? 最初は、沖縄に根付く慣習としてこの呼び名が使われたのかもしれない。けれどもこの「おばぁ」の称号が、帰化後に選んだ姓「橋間」同様、主人公をより孤独な存在にしてしまったのではないか?
台湾人なのに
沖縄生まれではないのに沖縄風の呼び方をされ、橋間という日本の姓がありながらも中身は100%台湾人。かつては養父の姓「楊(よう)の姉さん」と呼ぶ人がいたようだが、身近にひとりでも台湾人がいたら別の呼び方をされていたはずだ。
「楊(よう)の姉さん」と呼ばれ続けのたかもしれないし、台湾で年配女性を呼ぶときに使われる「阿嬤(アマー)」と呼ばれていたかもしれない。
”アンサクセス”とは?
この映画のキャッチコピーに、「南の果て、西表島に生きた台湾人女性のアンサクセス・ストーリー!」とあった。主人公が「運が悪かった」「簡単な約束で養女に出された」「親に言われるままに結婚した」と発言したから? 台湾に帰れたはずなのに西表島に残ったから?
タイトル「緑の牢獄」は、かつての炭鉱をたとえた名称に、西表島にただひとり残った主人公の悲観の歳月を重ねたものだという。けれども、その生涯を牢獄にたとえることが許されるのは、主人公自身だけなのではないだろうか?
そのような疑問を残しながら、映画はあっけなく完結する。全編を通して理解をうながすモノローグが入ることはなく、炭鉱についての説明も多くはない。鑑賞者は、与えられなかった感傷と残された違和感をかかえたまま日常生活に戻ることになる。
なぜここまで重い映画をと思ったが、数日たってその違和感と重さこそが、監督が表現したかったことなのかもしれないと理解できた。「ここにひとりの台湾人がいた。ここに多くの坑夫たちがいた。緑の牢獄と呼ばれた炭鉱があった」。その事実だけを差し出したかったのかもしれない。
主人公橋間良子のシワや白くなった髪、無骨な足、曲がった背中、風をみつめる横顔。茂みの奥にひっそりと残る炭鉱の遺構は、物語の重さに反駁するように忘れがたい美しさをたたえていた。
※注1「沖縄・西表炭鉱坑夫聞き書き1972」松村 修 編著(樹林舎)P.63に記載
筆者の余談:この映画を観て、筆者の祖母(この人も海を渡ってきた越境者であった)の言葉使いを思い出した。祖母も主人公同様に文盲で日本語が不自由だった。いつも叱責するような口調だったのは、言語のたりなさゆえだったのかもしれないと今さらながらに気づいた。
引かれた境界線を越えることは意外にもかんたんなのに(国境線がゆるいときならなおさら)、引き返すのはむずかしい。クレバスのような深みができてしまっていると気づいたときは、もう遅い。超えてきたその場所が、見えているのに聞こえているのに帰還はかなわない。
生涯アウェイの環境。その骨折れる生活と諦念を、映画の主人公に重ねながらおもう。