あまはじノート

amahaji note

映画「夜明け前のうた」と午後8時過ぎの市場界隈

 

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映画「夜明け前の歌」原義和監督作品


那覇市桜坂劇場で、「夜明け前のうた」(原義和監督作品)という映画を観る。

 

私宅監置(したくかんち)

「夜明け前のうた」は、精神的な病のケアを放棄され、または放棄せざるをえず、自宅の庭に作った小屋や裏座に、私宅監置された人たちをテーマにしたものだ。

 

 

※裏座:沖縄の伝統家屋の裏側にある部屋

※私宅監置:行政庁の許可を得て、私宅に精神病者を監禁する制度

 

私宅監置として用意された小屋は、2畳ほどのコンクリート造り、丸太を組み合わせた小屋状のもの、全体が木でできた小屋、木枠をはめ込んだ座敷牢など様々だ。外から釘を打ち付けられてしまうため、自由に外には出られない。食事は、小さな窓口から提供され、同じ部屋の中で排泄もすませるという仕様。 

 

私宅監置された人の多くは、ショックなできごとがきっかけとなり精神が疲れてしまったようだ。ある人は好きだった人との中を認められなくて。ある人は漁船の船長をしていたが、ある日持ち船が沈み乗組員が亡くなってしまったことをきっかけにして。 

 

北緯27度線

沖縄における私宅監置は、特殊な一面を持つ。北緯27度線がその成り行きを分断したのだ。北緯27度線は、奄美大島と沖縄をわける境界線である。この北緯27度線がなにを分けたのか? 

 

ポツダム宣言

大日本帝国による第二次世界大戦(太平洋戦争)の無条件降伏として連合国側(アメリカ、イギリス、中国)が「ポツダム宣言(1945年7月26日)」を発令。宣言の内容は多岐に渡るが、日本軍が進撃を止めること、日本の主が本州と北海道、九州、四国、連合国側が指定する諸島へと限定されることなどが記されていた。

 

日本側は実質上、この発令を無視。

これが原因であるかどうかは明確にされていないが、その後広島と長崎に原爆が落ちる。そしてやっと1945年(昭和20年)8月14日に、日本側がポツダム宣言を受け入れる。

 

このポツダム宣言受け入れの際に、北緯30度より南に位置する鹿児島県奄美諸島沖縄県が行政上分離され、アメリカに占領されることになったのだ。

 

その後、奄美諸島1953年(昭和28年)12月25日に日本政府に返還。

--奄美諸島沖縄県の間にある27度線で分断--

沖縄県1972年(昭和47年)5月15日日本政府に返還される。

 

このとき、27度線以北と以南でめぐりあわせが分けられた。沖縄県は、奄美諸島よりも19年も長くアメリカの支配下におかれたのだ

 

合法だった私宅監置法

現代では、私宅監置ということばにリアリティを感じない人がほとんどだと思う。じつは、合法的におこなわれた”制度”だった。

 

1900年(明治33年)年に、明治政府により「精神病者監護法」制定。これは幻覚や妄想などが原因で、叫んだり暴力をふるったりという行動をとる人を、許可制にして合法的に閉じ込めるという制度だった。主な目的は治安維持だったという。

(参照「消された精神障害者」原義和著、高文研発行。以下にも参照箇所あり) 

 

50年後の1950年(昭和25年)「精神衛生法」が施行される。このとき、私宅監置を認める「精神病者監護法」と、大正8年に発令されていた「精神病院法」が同時に廃止。これにより、日本国内では「私宅監置」が実質上禁止されることになった。

 

この1950年当時、奄美諸島は日本に返還されていたが沖縄県アメリカ統治下のまま。ここで沖縄県の多くの精神病者が、歴史の恩恵からこぼれていくことになる。沖縄県には日本の法律が適用されなかったため、1972年に日本に返還されるまでの間、沖縄県では私宅監置の歴史が続いてしまうのだ。

 

映画「夜明け前のうた」

映画は、かつて精神科の医師として沖縄県に赴任していた岡庭武氏が写した私宅監置者たちの写真をもとに展開される。1960年代当時を写すマウントに入れられたポジフィルムを灯りにかざすと、私宅監置小屋とその当事者たちの姿が見える。

 

映画では、名前と存在を消された人たちの実像を浮かびあがらせるように、ひとりひとりのいた場所や本人を知る人たちの逸話が紹介される。ある当事者は元気なころ草刈りに行くのが日課で、肩にカマをかけるように持ち陽気に歌いながら農道を歩いていた。

 

丸太小屋に監置された人は歌が好きな人で、その歌声は何度も周辺に響いたという。かつてアメリカ軍の基地で通訳として働いていたが、アメリカ軍から頭を叩かれるなどの暴力により精神を痛め、私宅監置されることになった人もいた。また、私宅監置の小屋を打ち破り、井戸に飛び込んで自死を選んだ人もいた。

 

沖縄の気候の中で

私宅監置小屋は、 自宅の庭の一角にが作られることも多かったが、人家から離れた畑や海岸の近くに作られることもあった。

 

映画の中で、丸太で造られた簡素な監置小屋が再現された。丸太といってもログハウスなどではない、簡単な枠組みに丸太を打ち付けただけの”木の檻”だ。

 

沖縄は、風が吹く島である。台風のあるなしにかかわらず、常に風が吹いている。冬には雨が続くことも多い。その沖縄で、すきまらけの丸太小屋に閉じ込められたら?

 

風にさらされることにより皮膚は乾燥しただろうし、相当に寒かっただろう。季節によっては80%以上の湿度が続く。熱気とじめじめとした空気ににさらされたまま日々を重ねる。

 

私宅監置小屋は、沖縄島だけではなく、宮古八重山などのエリアにも存在したことがわかっている。

 

夜明けの光、日中の太陽、茜色に焼ける夕日。出口のないコンクリートブロックに写る影。監置小屋の中から見えた光景は? 聞こえた音は、どのようなものだったのだろうか? 

 

なぜ私宅監置だったのか?

戦前(1945年以前)の沖縄には、精神科病院がなく精神科医もいなかったという。1954年(昭和29年)に、琉球政府による琉球政府精神科病院が設立されるが、わずか70床。 

1942年(昭和17年)時点で精神科病院が3つ設立され病床が242あった奄美大島に比較すると、大きく遅れをとっていたことがわかる。

 

病院に行きたくても行けない

1960年代になると沖縄県内に私立の精神科病院も建設されるが、当時は健康保険制度がなく医療費はすべて自己負担だった。

 

最初はなんとか工面しながら病院に連れていけたが、やがて医療費は家計を圧迫。畑や家を売ってもまかなえなくなり、仕方なく私宅監置の措置をとる。(参照「精神医療別冊 追悼 島成都」藤澤敏雄、中川善資編、批評社発行)

 

また、車がなく交通網も発達していない時代。病院に行って診療を受け薬をもらって帰るだけで2日以上かかるという地域事情もあった。近隣の目や治安を気にするという心理も影響し、私宅監置は「ちゃーんならん(「どうしようもない」という意味の沖縄口)」選択になっていったのだろう。

 

そして、1972年(昭和47年)の日本復帰により、ようやく沖縄県でも私宅監置が禁止される。

 

残る私宅監置小屋の跡

その私宅監置の跡や残骸が、沖縄県内には残っている。当時から私宅監置の事実があることは知っていても、口にするのはタブー。アンタッチャブル(触れてはいけない)な存在とされていた私宅監置のあきらかな証拠。私宅監置小屋の跡を保存する動きもあるが、反対する人も多いようだ。

 

 映画公開に際して開催された監督のトークショーを観覧したが、トークの間に監督に電話がかかる。なんと、「あ、大事な電話なので」と、舞台から席をはずす監督。「えっ? ふつうそんなことする!?」みたいなノリで笑っていたのだが、その電話は映画の公開を面白くないとする人からの苦情の電話だったのだ。

 

ひとりひとりに名前があった

映画の最後に、「藤(ふじ)さん、かなーさん(愛称)、金太郎さん……」と、ひとりひとりの名前が読みあげられる場面がある。卒業証書をひとりひとりに手渡しながら、「よく生きましたね」と声をかけているように聞こえた。

 

 

夜明け前のうた公式サイト 

yoake-uta.com

 

筆者の余談: 私宅監置の事実を知ったとき。「(戸川純が歌っていたけど)座敷牢ってフィクションの世界のことじゃなかったのか!!」と筆者は叫んだ。知らないうちに洗脳されていたのだなとおもう。

 

そして沖縄では、精神病者は「セジ高い」人として大切にされていたのでは? という思い込みもあった。「セジ高い」は、「サーダカー(生まれ高い)」とも呼ばれることもあり、霊能力が高い人を意味する呼び方である。

 

セジ高い人はユタになる資格を持つ人であることが多い。そのような人は、ユタになる前に地域を徘徊したり叫んだりしながら一時的に精神的に不安定になることがある。

その行為もセジ高い人がおこなうものだからと認められ許容されていた。筆者は精神病者も同様だと、かかわりのあった宮古島のユタの来歴に重ね合わせて片付けていたのだ。

 

また、喜納昌吉が歌う「ハイサイおじさん」のように、なんとなく近隣で受け入れられる状況があるのだろうとも想像していた。なんとも、ふわふわとした思い込みである。

 

ハイサイおじさん沖縄戦の辛苦により狂気を宿してしまった実在の人物をテーマにした楽曲。

 

映画を観終えて、午後8時過ぎの公設市場周辺を歩きながら帰宅。(まん延防止措置中の市場界隈は、離島の夜のような静けさだった)ただゆっくり眠りたかった。